不幸化計画。


【introduction:夢見た日常1】

「ねえ空木くん、この後用事あったりする?」
授業も全て終わり、ホームルームの時間まであと数分。
真新しい教科書をカバンの中に無理矢理詰め込んでいると右隣から透き通った綺麗な声が聞こえてきた。
木目千鶴。
彼女の席は僕の右隣の席だった。
長いストレートの黒髪のポニーテール。大人びた綺麗な顔立ちに銀縁の眼鏡がよく似合う。
高めの身長に白くて華奢な身体。
そんな美人な彼女に声をかけられた転校初日。
僕は彼女に見惚れてしまい、返事を忘れていた。
「えっ…あぁ、いやっ、暇…だけど……。」
はっと気付き慌てて返した言葉とは言え、なんて情けない返事だろう。
いきなりの出来事に驚き、思考回路がショートしそうだった。
心臓が急に高鳴ってうっすら汗が滲み出る。
…なんて言ったって僕は彼女いない歴=年齢の冴えない男子高校生。
それに加えて男子校からの転入である。野郎どもとの戯れに青春を費やしてきたようなこんな自分がこんな美人に声をかけられるなんて夢のようだ。
それにしても…木目さん。可愛いというか本当に美人な子だなぁ…。
こんな美人と会話なんて何年振りだろうか。もしかしたら人生初かもしれない。
彼女の前でガチガチに緊張する僕を全く気にせずに、彼女は笑顔で
「じゃあ放課後部活見学とかしていかない?」
と僕に言った。
部活、見学……。
僕は少し苦笑いを浮かべる。
なあんだ……びっくりした…ただの部活勧誘か…。
安心とがっかり感が入り混じった複雑な感情が僕の中を巡った。
いや、待てよ…?
僕は閃いた。
もし、入部したらこんな美人な子と一緒の部活。
今は顔を見るだけで緊張してしまう僕だが、部活仲間として縮まる2人の距離……!
これは…アリだ!
先ほど浮かべた苦笑いを完全に払拭して僕は息を呑んで
「うん、いいよ。部活どこ入ろうか迷ってたとこだし…。」
と、なるべく落ち着いて返事を返した。
相変わらず僕の心臓さんはフル稼働していらっしゃるのだが。
しかし、今僕が言ったことはまったくの嘘である。
運動音痴だというわけではないが、男だけしかいない部活に入る意味なんてなかったので僕はずっと帰宅部だったし、この学校でもそうするつもりだった。
僕の返事を聞いて木目さんはやった、とにっこり笑って言った。
笑顔も可愛いなぁ…こんな子と仲良くなれるなんてなんて幸せなんだろう。
「私はこの後委員会があるから後でついて行く事になるんだけど…」
その彼女の綺麗な声とほぼ同時に担任の先生が来て、帰りのホームルームが始まる。
先生の話を聞き流しながら、一緒には行けないのか…と少しだけ残念に思った。
しかしこれは今まで女子と全く縁のなかった僕にとって学校生活を充実させる絶好のチャンスだ。
やっと共学の学校に来たんだ。女の子と関わることが容易に出来る学校に!
またあんな情けないどもった返事をしないために小さく咳払いをして声の調子を整えようとしていると、視界の隅に白いなにかが横切った。
見ると机の右端に綺麗にたたまれた白いメモ帳が置いてある。
そのまま見上げると、木目さんが目線だけこちらを見ていて、人差し指でメモ帳を指さして微笑んだ。
声をかけられた時から心臓はずっと高鳴り続けているのだが、その動作にさらにどきっとする。
ついばっと目を反らし、俯いてしまった。きっと僕の顔は紅潮している事だろう。
かすかに震える手でメモ帳を慎重に開くと学校内の地図のようなものが描かれていた。
そのうちの一つの教室に矢印マークと、綺麗な字で(ここ!)と書かれている。
手紙かと思ったのでやや拍子抜けしてしまったが、どうやら地図にある矢印マークが指す教室が部室らしい。
高鳴っていた鼓動がやっと静かになりつつあるなか、自分はどうも過度な期待をし過ぎ、その上自滅しやすい質なんだな、と再認識する。
過度な期待は身を滅ぼす…自分では理解出来ているつもりだったが、女子(それもかなりの美人だが。)とのちょっとした関わりでこの様だ。
それは言うまでもなく男子校に通っていた自分が今までほとんど女子と関わる機会もなく、彼女が出来た友人たちを指をくわえて見てきた結果なのだが。
でも、それでも。
これは期待せざるを得ないだろう!
転校初日から隣の席に美人な女子が居るし!しかもこんな美人な女子と会話出来た上に、部活のお誘い!
これから木目さんとはもっと親しい仲になれるに違いない!
青い春がやっと僕の所へ訪れ、夢のような充実した学校生活をここで過ごす…そんな期待が膨らむ一方だった。
胸に広がる熱いなにかが僕の理性を溶かし、かき消していった。
僕は頬が緩むのを必死に抑えた。
一度は静かになった鼓動がまた高鳴る。この鼓動音さえ心地よく僕の中に響いている。
「はい、じゃあ号令。」
はっと気付くと先生の話は既に終わっていた。全く聞いていなかったけど、この後の事を考えると不安はまったくなかった。
号令がかかり、高校二年生になって初めての日程を終え、教室がにわかに騒がしくなる。
「それじゃあ、よろしくね。」 と、木目さんが微笑んで言った。こんなざわめき声の中でも木目さんの声は綺麗だ。
その笑顔にまた赤面してしまっているような気がして、僕は少し俯きながらうん、と頷く。
それをちゃんと確認してから彼女は足早に教室を出て行ってしまった。
そういえば委員会の仕事があると言っていたが、何の委員会に入っているんだろう、とそんな事を考えながら僕も早速地図に示された教室に行こうと教室を後にした。
まだ見慣れない校舎を1人で歩き進む。
カバンのずしりとした重みを右肩に受けながら。
しかし心は弾む。足取りも心なしか軽いようだ。
周りの生徒が一斉に帰りだす中その流れに逆らって歩を進める。
今日は始業式だという事もあり、活動のある部活は少ないようだ。歩いていくうちにだんだんと人が減っていった。
そして、僕はある教室の扉の前で足を止めた。
「ここ、か…。」
2、3回メモを見直して慎重に確認する。この教室で間違いはないようだ。
その教室のドアは他の教室のものと何ら変わりはなく、教室名はわからなかったが、何か特別な教室のようには見えなかった。
教室の位置は人目につかなさそうな場所という訳でもないが移動教室のときに特に気にもせずに通り過ぎてしまうような、そんな場所だ。
場所的に体育館からは遠いし、運動部がここを部室にしているという事はないだろう。
だとすれば、ここは文化部だろう。
木目さんが所属している部活なら茶道部とか華道部とか、そんな感じだろうか。
…きっと可愛い女子が居るんだろうな。仲良くなれたらいいな。
これからの学校生活、もとい青春をここで謳歌するのだと思うとまた緊張してきた。
そんな下心でいっぱいの僕は一度深く息を呑み、ドアを軽く2回ノックした。
「失礼、します…。」
がらり、と音をたててドアを開く。

それと共に僕の中の何かが音もなく崩れ去ったことを知らずに。